パソコンを買った日、
少しだけ怖かった。
胸が高鳴るようなワクワクじゃなくて、
静かに、でも確かに重たい感情だった。
家を出る前、
玄関で靴を履きながら、
何度も心の中で確認していた。
「本当に必要?」
「買っただけで終わらない?」
「使いこなせなかったらどうする?」
答えは出ないまま、
ドアを閉めた。
家電量販店は、
平日の昼間なのに人が多かった。
白い照明が少し眩しくて、
店内に流れる軽快な音楽が、
妙に浮いて聞こえる。
私は、
パソコン売り場の前で立ち止まった。
ずらりと並ぶ画面。
どれも綺麗で、
どれも「できる人」の持ち物に見えた。
値札を見るたび、
心臓がきゅっと縮む。
これを買うってことは、
もう戻れない気がした。
「やっぱりやめようかな」
何度もそう思った。
スマホさえあれば生活はできる。
今までだって、困っていなかった。
でも、
困っていないだけだった。
未来の私は、
このままで本当に納得するんだろうか。
展示されているキーボードに、
そっと指を置く。
冷たくて、少し硬い感触。
このキーボードで、
何かを書き始めるかもしれない。
何もできずに、埃をかぶるかもしれない。
どちらになるかは、
分からなかった。
店員さんが近づいてきて、
優しく声をかけてくれた。
「ご自宅用ですか?」
その一言に、
少しだけ詰まる。
「副業用です」とは、
まだ言えなかった。
「……在宅で、少し使えたらと思って」
自分の声が、
思ったより小さかった。
説明を聞きながら、
頭の中は別のことを考えていた。
この支払いは、
期待への投資なのか、
不安への賭けなのか。
レジに向かう足取りは、
重かった。
カードを差し込む指が、
少し震えた。
金額が表示された画面を見て、
息をひとつ、深く吐く。
もう後戻りはできない。
でも同時に、
不思議と逃げ道も消えた。
箱を抱えて店を出ると、
外の空気が冷たかった。
現実に戻されたような感覚。
重たい箱を腕に抱えながら、
私は思っていた。
怖いのは、
パソコンじゃない。
この先、
「やらなかった言い訳」が
使えなくなること。
「環境がなかったから」
「道具がなかったから」
もう、
それは言えない。
家に帰って、
箱を床に置く。
しばらく、
ただ眺めていた。
静かな部屋。
カーテン越しの光。
新品の箱の角ばった形。
それは、
可能性みたいで、
同時に覚悟だった。
電源を入れるまで、
少し時間がかかった。
でも、
その怖さの正体は、
ちゃんと分かっていた。
期待して、
失敗するかもしれない怖さ。
それでも、
何も期待せずに過ごすよりは、
ずっとましだった。
あの日、
私はパソコンを買った。
それは、
何かができるようになる日じゃなくて、
「もう逃げない」と決めた日だった。