土. 1月 10th, 2026

その日は、特別な出来事があったわけじゃない。
朝はいつも通り起きて、
いつも通りの一日を過ごして、
夜になって、部屋の明かりを落としただけ。

外は静かで、
窓の向こうでは車の音も少なくなっていた。
時計を見ると、もう日付が変わりそうだった。

パソコンの画面だけが、
部屋の中で小さく光っている。
その光が、少しだけ心細くて、
でも目をそらすこともできなかった。

「本当に、申し込むの?」

何度も、自分に問いかけた。
ページはもう何度も読んだ。
料金も、内容も、期間も、
分からないところがなくなるまで確認した。

それでも、
マウスを持つ手だけが、
なぜか少し重かった。

これを押したら、
もう「知らなかった私」には戻れない。
やらなかった言い訳も、
見ないふりも、
少しずつ通用しなくなる。

そんな気がしていた。

怖かった。
正直、それが一番だった。

うまくいかなかったらどうしよう。
ついていけなかったらどうしよう。
周りがみんなできる人だったらどうしよう。

申し込んだ瞬間に、
「覚悟が足りなかった」って
後悔するかもしれない。

頭の中では、
やめておく理由が、
いくつも浮かんでは消えた。

でも同時に、
もう一つの気持ちも、
ずっとそこにあった。

――このまま何も変えずに、
また一年過ごすのは、
もっと怖い。

深夜に検索して、
羨ましくて、
「私には無理だよね」って閉じて、
また同じ夜を繰り返す未来。

それを想像すると、
胸の奥が、静かに苦しくなった。

だから私は、
完璧な覚悟なんて持たないまま、
マウスを動かした。

勢いでも、
自信でもなくて、
「やらない後悔だけは嫌だな」
その気持ちだけで。

申し込みボタンを押した瞬間、
世界が変わる音はしなかった。

画面が切り替わって、
「お申し込みありがとうございます」
その文字が表示されただけ。

拍子抜けするくらい、
静かだった。

心臓が少し早くなって、
手のひらが、じんわり汗ばんだ。
それだけ。

嬉しい、よりも先に、
現実が来た。

「あ、もう戻れないんだ」

そんな感覚。

でも、不思議と後悔はなかった。
安心も、まだない。
期待も、少しだけ。

その全部が混ざった、
名前のつかない気持ちを抱えたまま、
私は画面を閉じた。

部屋は、相変わらず静かだった。
さっきまでと何も変わらない。

でも、
確かに一つだけ違っていた。

私はもう、
「やってみたいと思っている人」じゃなくて、
「やり始めてしまった人」になっていた。

何者でもないまま。
自信もないまま。
不安を抱えたまま。

それでも、
確実に一歩、
踏み出してしまった夜だった。

この日を、
私はたぶん、
ずっと忘れない。

何かが始まったというより、
逃げ道を、
そっと閉じた日として。

投稿者 minatsu

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