その日は、特別な出来事があったわけじゃない。
朝はいつも通り起きて、
いつも通りの一日を過ごして、
夜になって、部屋の明かりを落としただけ。
外は静かで、
窓の向こうでは車の音も少なくなっていた。
時計を見ると、もう日付が変わりそうだった。
パソコンの画面だけが、
部屋の中で小さく光っている。
その光が、少しだけ心細くて、
でも目をそらすこともできなかった。
「本当に、申し込むの?」
何度も、自分に問いかけた。
ページはもう何度も読んだ。
料金も、内容も、期間も、
分からないところがなくなるまで確認した。
それでも、
マウスを持つ手だけが、
なぜか少し重かった。
これを押したら、
もう「知らなかった私」には戻れない。
やらなかった言い訳も、
見ないふりも、
少しずつ通用しなくなる。
そんな気がしていた。
怖かった。
正直、それが一番だった。
うまくいかなかったらどうしよう。
ついていけなかったらどうしよう。
周りがみんなできる人だったらどうしよう。
申し込んだ瞬間に、
「覚悟が足りなかった」って
後悔するかもしれない。
頭の中では、
やめておく理由が、
いくつも浮かんでは消えた。
でも同時に、
もう一つの気持ちも、
ずっとそこにあった。
――このまま何も変えずに、
また一年過ごすのは、
もっと怖い。
深夜に検索して、
羨ましくて、
「私には無理だよね」って閉じて、
また同じ夜を繰り返す未来。
それを想像すると、
胸の奥が、静かに苦しくなった。
だから私は、
完璧な覚悟なんて持たないまま、
マウスを動かした。
勢いでも、
自信でもなくて、
「やらない後悔だけは嫌だな」
その気持ちだけで。
申し込みボタンを押した瞬間、
世界が変わる音はしなかった。
画面が切り替わって、
「お申し込みありがとうございます」
その文字が表示されただけ。
拍子抜けするくらい、
静かだった。
心臓が少し早くなって、
手のひらが、じんわり汗ばんだ。
それだけ。
嬉しい、よりも先に、
現実が来た。
「あ、もう戻れないんだ」
そんな感覚。
でも、不思議と後悔はなかった。
安心も、まだない。
期待も、少しだけ。
その全部が混ざった、
名前のつかない気持ちを抱えたまま、
私は画面を閉じた。
部屋は、相変わらず静かだった。
さっきまでと何も変わらない。
でも、
確かに一つだけ違っていた。
私はもう、
「やってみたいと思っている人」じゃなくて、
「やり始めてしまった人」になっていた。
何者でもないまま。
自信もないまま。
不安を抱えたまま。
それでも、
確実に一歩、
踏み出してしまった夜だった。
この日を、
私はたぶん、
ずっと忘れない。
何かが始まったというより、
逃げ道を、
そっと閉じた日として。