その日は、朝から落ち着かなかった。
特別な予定があるわけでもないのに、
いつもより早く目が覚めてしまった。
カーテン越しの光が、
やけに現実味を帯びて見える。
「今日から始まる」
その事実だけが、頭の中で何度も反響していた。
パソコンを開くまでに、
無駄にコーヒーを淹れ直した。
飲み終わっても、
まだ時間は余っていて、
心だけが先に進んでいる感じだった。
ログイン画面を開く。
メールで届いていたURL。
昨日も確認したはずなのに、
また一文字ずつ、慎重に目で追った。
――本当に、ここに入るんだ。
クリックした瞬間、
画面に並んだのは、
見慣れない言葉、
初めて見る画面、
知らない名前。
思っていたより、
ずっと「知らない世界」だった。
動画一覧。
カリキュラム。
チャット欄。
課題、ツール、専門用語。
ひとつひとつが、
「ここからがスタートですよ」と
無言で告げているみたいで、
胸がきゅっと縮んだ。
正直、
最初の数分で思った。
――あ、私、場違いかもしれない。
説明を聞いても、
言葉が頭に入ってこない。
知っているはずの日本語なのに、
意味が追いつかない。
周りは、
もう分かっている前提で進んでいる気がした。
質問が飛び交って、
「なるほど」「理解しました」
そんな言葉が並ぶたびに、
自分だけが置いていかれている感覚になる。
私は、
ただ画面を見つめていた。
分からない。
何が分からないのかも、分からない。
質問しようにも、
どこから聞けばいいのか分からない。
そもそも、
この状態で質問していいのかも分からない。
パソコンの前に座っているのに、
心は少し後ろに引いていた。
――やっぱり、無理だったかな。
そんな言葉が、
喉の奥まで上がってきて、
でも、声にはならなかった。
画面の隅に映る自分の手。
ぎゅっと、無意識に握っていた。
そのとき、
ふと思い出した。
スクールに申し込んだ夜のこと。
怖かったこと。
迷ったこと。
それでも、
「やらない後悔だけは嫌だ」と思ったこと。
あの日の私は、
「分からない未来」を選んだんだ。
だったら、
今ここで分からないのは、
当たり前じゃないか。
そう思った瞬間、
ほんの少しだけ、
呼吸が楽になった。
分からなくていい。
理解できなくていい。
今日は、
「ここにいる」だけでいい。
そう自分に言い聞かせて、
私はもう一度、画面を見た。
相変わらず、
内容は難しかった。
全部は分からなかった。
でも、
途中で閉じることはしなかった。
それだけで、
今日の私は、
前の私より少しだけ違っていた。
スクール初日。
何も分からなかった私。
でも、
何も分からないまま、
逃げなかった私。
その事実だけが、
静かに、
心の奥に残っていた。
この日はきっと、
何かを「学んだ日」じゃない。
ただ、
「始まってしまった日」だった。
不安も、
自信のなさも、
全部連れたまま。
それでも私は、
もう戻れない場所に、
ちゃんと立っていた。