その夜は、特別なことは何もなかった。
洗い終えたマグカップを伏せて、
部屋の電気を少しだけ暗くする。
窓の外では、
誰かの部屋の灯りがぽつぽつと浮かんでいて、
この街で今日も一日が終わろうとしていることだけが分かった。
パソコンは、もう閉じている。
今日やった作業は、ほんのわずかだった。
動画を一本。
メモを数行。
調べものを少し。
カレンダーに書くほどでもない、
誰かに話すほどでもない、
そんな一日。
ベッドに腰掛けた瞬間、
ふっと心に浮かんだ。
――このペースで、本当にいいのかな。
もっとやっている人がいる。
もっと進んでいる人がいる。
同じスクールに入ったはずなのに、
気づけば、誰かはもう次のステージに立っている。
SNSを開けば、
成果報告や、前向きな言葉が流れてくる。
「今日も◯時間作業しました」
「初案件、獲得できました」
「行動あるのみ!」
画面を閉じても、
その言葉は、しばらく頭の中に残った。
私は、何をしているんだろう。
こんなゆっくりで、
こんな不安定で、
こんなに迷いながらで。
本当に、辿り着けるんだろうか。
胸の奥が、
じわっと重くなる。
焦りとも、
不安とも、
少し違う感情。
「置いていかれるかもしれない」
そんな予感に近かった。
ロードマップを思い出す。
あの日は、
未来が少し近くに感じられた。
自分にも、道がある気がした。
でも現実は、
相変わらず同じ部屋で、
同じ生活で、
同じ不安を抱えている。
何も変わっていないように見える。
――もっと頑張らないとダメなんじゃない?
――このままだと、意味がないんじゃない?
そんな声が、
自分の中から聞こえてくる。
一瞬、
全部投げ出してしまいたくなる。
「やっぱり向いてない」
「私には無理だった」
そう言ってしまえば、
少し楽になれる気がした。
でも、
その言葉を口にしようとして、
私は止まった。
それを言ったあとの自分を、
想像してしまったから。
また何もしていない自分。
また、考えるだけで終わる日々。
また、「やればよかった」と思う未来。
胸の奥が、
静かに痛んだ。
――それだけは、嫌だ。
ゆっくりと、
深呼吸をする。
確かに、進みは遅い。
確かに、不安だらけだ。
でも、
今日はやめなかった。
画面を閉じる前に、
ちゃんと手を動かした。
昨日より、
ほんの少しだけ前にいる。
誰かのペースじゃなくて、
私のペースで。
思い出す。
副業を始める前の私は、
「やりたい」と思いながら、
何もしていなかった。
今は違う。
うまくできなくても、
自信がなくても、
「やっている途中」にいる。
それは、
簡単に手放していい場所じゃない。
このペースで、
本当にいいのか。
答えは、
まだ分からない。
でもひとつだけ、
はっきりしていることがある。
このペースをやめてしまったら、
私は、また同じ場所に戻る。
それだけは、
もう選びたくなかった。
ベッドに横になり、
天井を見上げる。
暗闇の中で、
不安は、相変わらず隣にいる。
それでも、
今日の私は、
「続ける」という選択をした。
速くなくていい。
派手じゃなくていい。
この夜を越えた先で、
また小さな作業をする自分がいるなら、
それでいい。
そう思えたとき、
胸の重さが、ほんの少しだけ軽くなった。
このペースでいいのか、
まだ分からない。
でも、
このペースを選び続けている私は、
確かに、前に進んでいる。
答えは、
きっと、
続けた先でしか見えない。
今夜は、
それだけ信じて、
目を閉じた。