画面の右上に、小さな通知が表示された。
「ご依頼内容のご確認をお願いします」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
初めての、正式な仕事だった。
練習でも、課題でもない。
誰かがお金を払って、
「書いてほしい」と依頼してきた文章。
マウスを握る手が、わずかに汗ばむ。
募集文にあった
「初心者歓迎」という言葉を、
頭の中で何度も繰り返す。
歓迎、という響きと、
実際に求められるものの重さは、
きっと別物だと、最初から分かっていた。
テーマを開いた瞬間、
画面に並んだ文字が、
一斉に距離を取ったように感じた。
専門用語。
構成案。
「SEOを意識して」
「読者の悩みを想定して」
どれも学んできたはずの言葉なのに、
実際の画面では、
どこかよそよそしかった。
ノートも、メモも、
それらしい言葉で埋まっている。
分かっているつもりでいた。
それでも、
「書いてください」と言われた途端、
頭の中は、きれいに白くなった。
白い画面の中央で、
カーソルだけが点滅している。
急かすでもなく、
ただ、待っている。
一文目が出てこない。
これでいいのか。
間違っていないか。
もっと上手な人が、
いくらでもいるのではないか。
そんな考えが浮かんでは消え、
指はキーボードの上で止まったままだった。
気づけば、一時間が過ぎていた。
書けたのは、たった二行。
私は椅子に深く座り直し、
天井を見上げた。
胸の奥にあった小さな灯りが、
わずかに揺れている気がした。
それでも、
画面は閉じなかった。
コールセンターで、
初めてクレームを受けた日のことを思い出す。
言葉が詰まり、
声が震え、
頭の中が真っ白になった。
それでも、
受話器は置かなかった。
マニュアルをめくり、
深呼吸して、
たどたどしく言葉を選んだ。
完璧ではなかった。
けれど、
最後まで対応した。
今の状況は、
あのときとよく似ている。
私はもう一度、
キーボードに指を置いた。
うまく書こうとしない。
評価されようともしない。
ただ、
読んでくれる誰か一人に、
届く文章を書こうとした。
一文目を打つ。
ぎこちない文章だった。
洗練とはほど遠い。
それでも、
白い画面は、
もう完全な空白ではなくなった。
二文目を書いた頃には、
呼吸が少し落ち着いていた。
三文目を書いたとき、
カーソルの点滅が、
怖くなくなっていることに気づいた。
難しい。
確かに、簡単ではない。
それでも、
私は書いていた。
送信ボタンを押したあと、
部屋の空気が、
ほんの少し変わったように感じた。
やったことは単純だ。
記事を書き、
リンクを貼り、
「ご確認お願いいたします」と送っただけ。
正式な納品ではない。
報酬が確定したわけでもない。
まだ途中の段階だ。
それなのに、
胸の奥は落ち着かず、
スマートフォンを伏せたり、
また画面を開いたりを繰り返していた。
添削。
修正。
OKが出たら、正式に納品。
その言葉が、
頭の中を何度も往復する。
直されるかもしれない。
ダメ出しをされるかもしれない。
見送られる可能性だって、
決してゼロではない。
まだ何も決まっていないのに、
悪い想像ばかりが、
妙に具体的だった。
それでも、
後悔はなかった。
「もっとこうすればよかった」より、
「とりあえず出した」という事実のほうが、
はるかに大きかった。
前の仕事も、
最初からうまくいっていたわけではない。
赤ペンだらけのメモを渡され、
何度も同じ注意を受けた。
それでも、
辞めなかった。
直されるたびに、
自分の基準が、
少しずつ書き換えられていった。
今は、
その最初の赤ペンを、
待っている段階なのだと思う。
画面の中の記事は、
もう私の手を離れている。
良くも悪くも、
誰かの目に委ねられた。
それが、
少し怖くて、
同時に、少し誇らしかった。
夕方になり、
窓の外の光が変わっていく。
朝の白かった光は、
やわらかな橙色に溶けていた。
今日一日、
世界は何も変わっていない。
私は有名になっていないし、
急にプロになったわけでもない。
それでも。
「添削してもらう段階まで来た」
その事実を、
静かに胸の中で確認する。
書いた。
送った。
逃げなかった。
まだ途中だ。
まだ不安もある。
肩書きもない。
けれど、
もう「やっていない人」ではなかった。
修正が来たら、直せばいい。
OKが出たら、次を考えればいい。
今日はただ、
ここまで来た自分を、
否定せずにいようと思う。
パソコンを閉じる前、
送信済みの画面をもう一度見る。
そこには、
確かに、
私が書いた文章へのリンクがあった。
小さく、
しかし、確かな一歩。
物語は、
まだ途中だ。
そして今、
次のページが、
静かにめくられようとしている。